title>馬町空襲を語り継ぐ会 -------

肉親の名前が知りたい!

おぼえておられますか!
2014年の「馬町空襲の地の石碑」除幕式典の日にひとりの女性が名乗り出られました

「わたしが1歳のときに空襲に遭い、親が死亡したと養⽗から聞かされました。両親がどこでどう暮らしていたのか、名前すらわ
かりません。⾎のつながりのない養⽗からは『三⼗三間堂近くの交番に⾏けばわかる』と⾔われたのですが、怖くて⾏けませ
んでした。私も70歳を超え、最後のチャンスかもしれないとやってきました。せめて、両親のなまえさえわかれば・・・」

 アジアプレス・ネットワークより(ネット掲載)

一部記事をこの件に絞り抜粋加工してます

 新聞うずみ火(ネット掲載)

この情報に最も近い資料として妙法院前側町に落ちた爆弾の聞き取り調査で清水喜美子さん(故人)の証言資料です

   

この会での資料あわせと考察
従来犠牲者名簿は当会でも収集した「松原警察調書」に書かれたものだけと思われていましたが、2018年1月に本会の石本氏が新たな名簿(花山火葬場での名簿調査含む)を持っておられることが判明、懸案だった孤児の方の調べもかなり核心に近づきました、


1.この孤児の方が妙法院前側町に在住しておられたという何らかの確証ある証拠があればほぼこの清水さん証言と一致する。孤児になられた方の話はこれまでの収集資料中、この清水さん証言の妙法院前側町の民家直撃で赤ちゃんが助かってお母さんが即死した話以外の資料や話が見つからない。

2.このHP作成責任者である当人の家系も、古くからこの妙法院前側町に在住、母親(故人)から何度も聞いた記憶では《爆撃があって翌日父親がすぐに見に行ったところ、お母さんに抱かれていた赤ちゃんが奇跡的に助かりお母さんは首から上を爆弾の破片で飛ばされ即死状態だった》と言うことで、爆撃は東大路から西はこの一発のみで被害報告も町内に伝わるこの話のみであった。

3.現在当会が保有する二種類の名簿を合わせてみて(犠牲者再整理エクセルデータ)再度考察すると、生年月日のない方は空襲後の重傷者で後なくなった方でこれからはずれる。

4.残った方で1才の赤ちゃんの母親と言うことで年代で20~30代しかも女性であること考慮して消去法で消していくとエクセルデーター中の6名が残ってくる

 35番「山田 玉子」さん27才という方と
 19番「田中 キノ」さん37才(女性の名前と推察)
 22番「服部 たつ」さん38才
 24番「浜田 君子」さん37才
 30番「福田 政子」さん30才
 37番「山本 佐枝」さん31才
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22番は身内の方在住確認、30番は身内の方が除幕式出席献花されてます。
19番は20番の母親か?遺骨引取り人が同じ方
24番は25番の男性と遺骨引取り人が同じ方
37番は38,40,41番の方と遺骨引取り人が同じ
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最終的に残ったのは35番の「山田 玉子」さんという方が残り、しかも遺骨引取り人が同じ名前で住所が妙法院前側町とあるので最もこの中で情報に近いのではないかという位置におられます。

○ただ孤児の方からは肉親の方が即死されたとの報告を受けてないので、重傷後なくなった方の可能性も捨てられない。二十五回忌法要の名簿中重傷後の死亡の方の年令が記載されてないのが残念である。
○そして遺骨引取り人が妙法院前側町在住であっても、犠牲者が同住所の方とは限らない。
○現に遺骨引取り人の住所の中には鐘鋳町なども有り、ここは爆撃とは全く関係のない町内である。従って清水喜美子さん証言とは別物である可能性も有り、そうなると調査は振り出しになる可能性もある。
○孤児の方の妙法院前側町在住の物的証拠などが得られればもう少し核心に近づけるかもしれないと思います。

調査考察:本会メンバー、石田泰和
  

 この会での調査の経過報告と限界

1945年1月16日の馬町空襲からすでにこの時点で73年を経過し、記憶されている方もすくなくなりつつ有り、証言を聞ける方も新たな資料も乏しくなってきました、この会としてもこれまで収集の資料を基に全力で調査してみましたが、この時点で大きな壁にぶつかり、これ以上の進展はありませんでした。
依頼された孤児の方へは100%確信を持ってこれがあなたの肉親のルーツですといえることはできませんでしたので
、2018年2月現在最終報告はできておりません。
もう少し早く取り組んでいればもっと確実な情報が得られたかもしれません。
引き続きこの件に関しまして情報をお持ちの方の提供をお待ちしております。
PXL07655@nifty.ne.jp 石田まで


 
写真
 

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