〔まんどりいの覚え書き(1)〕
マンドリンがその音楽の中に採り入れられたオペラ
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〔まんどりいの覚え書き(2)〕 |
ローマのマンドリンヴィルトゥオーゾ・コンスタンティノ・ベルトウッチは1878年パリーの万国博覧会にローマ婦人マンドリン合奏団を率いて出演、折から発明されたばかりの電話によってヴェルサイユに中継され、この大成功が評判になり逆にイタリア上流社会にもて囃されるに至った。 乞食の楽器と蔑まれたマンドリンは一躍貴顕紳士淑女の寵児となり、皇子の結婚、外国使節の接待、其他宮廷の行事には凡てなくてはならぬものとなった。
又時の都フィレンツェでは富めるも貧しきも老いも若きも夕べともなれば街に出てマンドリンを奏でたと云う。
ヴァイオリンの教授は急拠マンドリン教授と看板を書き換えねばならなかった。 |
〔まんどりいの覚え書き(3)〕 |
マルゲリータ皇后はイタリア王ウムベルトー世(1878-1900在位)の妃、既に皇太子妃時代べリザリオ・マッテーラ教授の許にマンドリンを学び、即位後はマンドリン音楽の最大の擁護者となった。 マルグゲリータの名を冠した合奏団はイタリアの各地に興り膝下フィレンツェのマルゲリータ皇后マンドリン合奏団ではリカルド・マナィ一ニ、力ルロ・グラツィアーニワルテル、カルロ・ムニエルの錚々たるところが指揮に当り年百回以上の演奏会を持つに至りマンドリン作曲家は挙って自作を献呈した。
先天的に芸術的感受性豊かなフィレンツェの人の中からマンドリン音楽の心酔者が次々と生まれて之等が先駆者となった。 |
〔まんどりいの覚え書き(4)〕 |
爪(ピック英、プレットロ伊、プレクトル仏)を楽器の弾奏に初めて使用したのは紀元前612年頃生まれたギリシャの女流詩人サッフォと云われる。 彼女のピックは自身の設計に成ったもので象牙をもって作ってあった。
長さ1吋程で今日のピックと形状に於いて大差ない。
勿論当時は現今のようなマンドリンはなかったので恐らく古のリラ或はアルパの類に用いられたものであろう。
材質は紙、羽毛、皮革、象牙、ゴム、鼈甲、セルロイド等があり夫々長所短所がある。
形状、大いさ、厚味も各氏各論でヴァィオリンの弓程に制定されていない。
使い慣れたものが弾き易いのは当然であるが、正しいというのはおかしい。 |
〔まんどりいの覚え書き(5)〕 |
谷崎潤一郎は随筆の中でこんなことを云っている。 「東京大阪の女を西洋の楽器にたとえれば、東京はマンドリンで
―ひどいのは大正琴で― 大阪はギターである。
座談の相手には東京の女が面白く、寝物語りには大阪の女が情けがある。
つまり性的興味を離れて男に対するような気持で舌戦を闘わす時は東京の女は大胆で露骨で皮肉や揚足取りを無遠慮に云うから張り合いがあるけれど「女」として見る時は大阪の方か色気があり、魅惑的である。
しかしそれは姪蕩とか野卑という意味ではない。
東京はアケスケでお侠で蓮ツ葉であるだけに何となく擦れつ枯らしの感じがして却って下品だ」
Motte ikanto Nasu ! |
〔まんどりいの覚え書き (6)〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
親子又は兄弟のマンドリン曲作家或はマンドリニスト
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〔アッと驚く まんどりいの覚え書き (7)〕 |
比留間賢八は1901年(明治34年)イタリア人アッティレ・コルナティにマンドリンを学んて帰朝、この楽器と奏法を日本で拡めた。 彼の当時の弟子には藤田嗣治、南薫造、田辺至、里見惇、河合武雄、富本憲吉、岩本透、徳川義親、曽我廼舎五九郎、土方久敬、萩原朔太郎、
婦人では大山元帥夫人、大倉喜八郎夫人、長岡外史娘、伊束元帥及び東郷平八郎娘等があった。
明治38年学習院補仁会に、39年東京美術学校に初めてマンドリン合奏団を組織し、同年慶応グネルソサエティ演奏会に我が国最初のマンドリン合奏を行った。
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〔まんどりいの覚え書き(8)〕 | |
婦人の音楽の愛し方を定義づけて次のように云っている人がある。
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〔まんどりいの覚え書き(9)〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
弦を撥いて奏でる楽器は
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〔まんどりいの覚え書き(10)〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||
音色と色調との物理学的関係に就いての研究は事新しくないが、或るフランスの物理学者は楽器の色感を次のように決めている。
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〔まんどりいの覚え書き(11)〕 |
イタリアでマンドリン音楽が興隆しつゝある時に当って一世を風摩したロマンツァがある。 Alla Stella Confidente(希望の星へ)であるが之はグラッツィアーニ・ワルテルがマンドリン合奏曲に、デ・クリストファロが相当の序奏を附してピアノ伴奏のマンドリン独奏曲に仕立て其他にも数多の作家がマンドリン曲にしているので私は永い間だその作曲Vincenzo
Robaudiに就いて知りたいと思っていた。
然しイタリア出版の相当詳しい音楽辞典にもこの人の名は見出ない。
N.N.と称する徹底的に匿名で作品を名所で発表しているマンドリン関係の作曲者があるが、その人の著書に「501の音楽逸話集」があり計らずも其処でこの有名をロマンツアの作曲家を知り得た。
それによるとVincenzo Robaudiは1882年63才を以ってトリーノに逝いた陸軍大将でAlla
Stella Confidenteの作曲者として知らぬ人はないと云うことなのである。
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[ まんどりいの覚え書(12)] |
ポンパドゥール侯爵夫人が史上稀に見る美貌の持ち主であったことは前に述べたが、ラヴィトラーノの傑作「ローラ」もあのスペインの舞姫ローラ・モンテスとすれば残っている肖像画では実に美しい。 フランスの初期の写真師アダム・サロモンが1855年頃写した写真を見てもわかる。
バイエルン国王ルドヴィヒ一世がひと目見て茫然と口をあけたまま殆ど言葉が出なかったとゆうほどである。
然しフランスのルイ十二世の娘でフェルラーラ公エルコーレ二世の妃となったレナータは残っている肖像画で見る限り余り美しいとは云えない。
かつて紹介したナポレオン一世の妹ポーラン(セント・ヘレナに流された兄にギターを贈って慰めた)も美人の誉高く肖像画で若し番附を作れば先づ三役には入る。
同じ美人と云っても妖艶・崇高、清純、色々あるが、中世以来の諸大家の描いた肖像画は多く高貴な人を描いたもので、権力が美しさを押しやって前面に出るので余り感心しない。
然しマンドリン音楽の擁護者マルゲリータは仲々に美しい。
古来「絵のように美しい」とか又反対に歌の文句にある「龍宮城にきて見れば絵にもかけない美しさ」とゆうこともあり、何を尺度に美醜を決めるべきか。
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〔きたるら覚え書き (1)〕 |
ナポレオンの二つのギター。 イギリスに投降してして孤島セント・ヘレナに流されたナポレオンは厳重な監視下に二三の側近者と晩年を送った。 彼は二番目の妹Paulineから贈られたギターを淋しく其処で奏でたが、死後そのギターは彼を慰めた英国仕官バルコムの娘に遺され、以後屡々所有者が変わったが、二十数年前に競売に付されてメルボルンのナポレオン遺品蒐集家に百ギニアで落札された。
若い時に持っていたギターは彼の股肱バッシュヴィーユ将軍に贈られ、将軍はドイツから英国に移ったギタリスト・ベルツェルに与え、後その娘でヴィクトリヤ女帝時代の英国貴族にギターを教えたプラッテン夫人に受け継がれた。
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