イタリアマンドリン百曲選第1集
[いるぷれっとろ] =1= 発行日1969年10月31日

[イタリアのマンドリンアンサンブル佳曲百曲集の頒布]


 過去半世紀の間に私が蒐集したマンドリンの為の曲は5000曲を越えている。
私の死と共に之等は四散する運命にあると思われるので、この中100曲の佳曲を選んで同好の士に頒布しておきたいと思う。
但しこの中には今日各地の演奏会で上演される名曲は殆ど含まれていない。
時間的に4.5分の佳曲のみを集めた。
今日演奏会の傾向が大袈裟になり、小規模のアンサンブルでマンドリン音楽を楽しむ傾向が疎んぜられ幾多の佳曲が顧られないことが甚だ残念である。
多くの愛好者が学生生活を離れ、社会人となり又家庭に入ると共に忘れ去られ唯若い人達による音楽会場のものとなり終わるのは斯楽の在り方もよくないが、資料の乏しさにもよる。
二三年間で習得した技術で家庭に入っても充分少人数で楽しみ得るのである。
辺地にある人も家庭の人も他日の、又明日の為に同好の士は是非申し込まれたい。
演奏会用としても役立つよう低音楽器は原曲にないものも原曲を損なわぬ程度に書加えた。
判明している史実と一応の解説も附した。
 
 Riduzとあるのは編曲で原曲は管弦楽、吹奏楽、ピアノ等で原曲に三つ以上の楽器を書加えたものも含めてある。
Elabは、種々のものを参考にして丹念に整曲したもの。
Rivisは運指を附けたり低音楽器を加えたもので、いづれも編曲には入らない。
解説はこの種の出版物が稀なので知られてない故、史実に基づいて調べたもので之又他日の為に楽譜と共に保存せられたい。
大体10曲を一集として10集に纏め、総譜のみとし、希望の曲のみは頒布しない。
大なり小なり私の手が加っているので、之を基とした印刷販売は禁ずる。
頒布楽譜の体裁は印刷でなく私の浄書したものをフィルムにとり、之を基とした印刷販売は禁ずる。
頒布楽譜の体裁は印刷でなく私の浄書したものをフィルムにとり、之を拡大した陰画からコピーしたもので縦30cm、横21cmの大きさになる。
例外は多少あるが、編成は第一第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、マンドローネ(コントラバスで代奏も可)ギターで各パート分割奏の部分はある。
演奏会でも家庭での小アンサンブルでも出来るよう配慮した。

 
イタリアマンドリン百曲選第2集
〔いるぷれっとろ〕 =2= 発行日1969年11月15日

〔第二集に際し〕


 第一集は疾く8月頃出来ていたが、解説の原稿を書いているうちに身辺の同好者が持って行ってしまったので、急遽若干のやき増しを作った。
解説の印刷の方の面倒は一切、後藤昌治君に願い大いに助かったが、頒布宣伝のこととなると身が入らず予定よりひどく遅れてしまった。
 それでも百部程の第一集解説パンフレットを宣伝の意味で発送したが、第二集からは第一集の申込者に限って印刷物をお送りするつもりである。
勘定合って銭足らずで、何やら費用倒れの感があるが、既に第三集の編集も大体終わっている。
元々私の道楽で始めたこと、第三集以下の曲目を発表するのがよいのかも知れないが、之はお楽しみということにして頂く。


イタリアマンドリン百曲選第3集
〔いるぷれっとろ〕 =3= 発行日1970年1月20日

〔第三集について〕


 第一集冒頭に私は「今日各地の演奏会で上演される名曲は殆ど含まれていない」とかいたが、本第三集で「メリアの平原にて」を採り上げたことを寛容されたい。
と云うのは作者マネンテが其後に自身で大編成の吹奏楽曲に編曲した総譜を見ているうちに、多くの訂正や細かい指示を加えているので、急遽改訂版を紹介しておきたい意欲にかられたからである。
大体一集のスコアを50頁内外に留めたいので「メリアの平原にて」が26頁をとり他を割愛せざるを得なくなった。
解説の方もこの際出来るだけ調査して詳細に述べた為に之に大半をとられてしまった。
然し斯かる名曲が不備の儘伝わるのは忍びないのと案外無雑作に扱われていることが年と共に気になることなので、敢えて採り上げたわけである。
従って最初の予定百曲が第十集までに収まらないので第十二集或いはそれ以上になるかもわからない。
但し先のことであるから送金は一集毎にしていただきたい。
引き続いて購読の方のみ発行の都度案内する。
予定としては一ヶ月に一集を出したいと考えている。


イタリアマンドリン百曲選第4集
〔いるぷれっとろ〕 =4= 発行日1970年2月10日

〔機  会〕


 楽譜の入手と云うことは機会を失すると永遠に臍を噛む場合が少くない。
私等もそうした機会を幾度も失している。
全国学生マンドリン連盟でも資料の乏しさから選曲に苦しんでいるようであるが、演奏会は盛大に行っても資料の充実にかけては甚だ不熱心であるように見受けられる。
私が本百曲選を刊行したのもそうした面の一助にもなればと思ったからであるが、案内を出しても梨の礫の大学が大半である。
大方は民間の熱心な愛好家で、全マン連の打出しているマンドリン音楽の追求の姿は何処にも見られない。
私は思い立ったからには何を措いても刊行するつもりであるが、機会を失して臍を噛むことかあっても私は知らない。
ひどく強気な発言と思われる方があるかも解らないが、そこが真に追求するものと一時の慰みに終る者との差かも知れない。
初めから損得を度外視してかかった仕事であるから結果の如何に不拘悔いはない。
私の編曲が入るが著作権使用料は原作者のもので、私の手には一文も入らないことを念の為に申添えておく。


イタリアマンドリン百曲選第5集
〔いるぷれっとろ〕=5= 発行日1970年5月20日

〔第五集での思い出〕


 名曲は何度弾かれてもよいし又そうありたいとも思うが、
各地から贈られるプログラムを見ると判で押したように同じようなことが繰返えされている感じは否めない。
レパートリーが少いことも確かであるが最大の原因は、メンバーの流動が激しく現役のメンバーにとっては何を
持ってきても奏者としては新鮮な為に傍目から見た堂々巡りが苦にならないのであろう。
この曲集の発行もそうしたことの一助にもなればと思って始めたのであるが
案外愛好者自体はそうした痛痒を感じていないのではないかと今では思っている。
本曲集も第五集に至って漸く32曲。
未だ予定の曲は山積しているが、総譜を浮書する私にとっても多少の新鮮味がなければやりきれないので予定外のものも加えている。
発行し出してから未だ一ヶ年も経っていないから反響のほどは全く解らないが、
私の一方的な趣味から始めたことで挫折はしないが送金は御案内後にして頂きたい。
何しろ余生は少いのであるから。


イタリアマンドリン百曲選第6集
〔いるぷれっとろ〕 =6= 発行日1970年6月10日

〔第六集マンドリンギター二重奏曲特集〕


 第6号はマンドリンギター二重奏曲のみを収録した。二重奏と言うよりはギター伴奏マンドリン独奏の形のものが大半である。
大体一集を50頁内外に収めるつもりのところ書いても書いても捗(はかど)らないので考えてみると
オーケストラの場合は二段内至三段で収まるものが7段書かなければならない。
従って本集では33頁として15曲を収めた。
之等のものは殆んど出版社がなくなっているので初めて見られるものが多いのではなかろうかと思っている。
いづれも当初の予定外のものであるので本集だけは御希望の方に頒布する。
演奏技巧の上からはさして難しいものではないので慰楽曲集とゆう形になった。


イタリアマンドリン百曲選第7集
〔いるぷれっとろ〕=7= 発行日1970年7月20日

〔本曲集の意味〕


本百曲選はイタリアの半世紀以前のものが大半を占める。
従って現代の若い人たちにアッピールするものは極めて少い。
今私のようを者が斯うしたことをしなければ跡方もなく消え失せて了うであろう。
現にイタリア本国でも全く顧られず、忘れ去られるどころかマンドリン音楽そのものが地に落ちて怪しむ者もいない。
戦後日本も急激に経済発展を遂げて悉(ことごと)く新しきを追うに急であるが一方前古典の音楽が再認識されて盛に上演される面もある。
マンドリン音楽がイタリアで栄えたのは時代的にはロマンの後期であるが実質的には初期のものが大半で現代では最も疎んぜられている。
中には「今頃ロマンのもの」等と一種の軽侮を以って見る向きもあるが私は一つの記録として敢えてしておきたい。
諸事万般愈々複雑な世情となって刺激の強いものが要求されてきているが、
そうなればなるほど一方にプリミティーヴを面に憧れを持つのは人の常でこのことも無意味ではないと思っている。


イタリアマンドリン百曲選第8集
〔いるぷれっとろ〕 =8= 発行日 1970年10月20日

〔秋の独り言〕


 この夏は色々なところから思わぬ資料が沢山集ってそれへの興味やら調査で第8集の発行がおくれて了った。
熱心な方の中には希望者が少いので私が断念したのではないかという懸念を持たれた向もあったようであるが決してそんなことはない。
私は個人として希望される方が本当の斯楽の愛好者だという感を深くしている。
 我がクラブは予算の都合で到底全部は購読しきれないとか、受領証の請求などがあって全く果敢ない思いをしていることは事実である。
 或公共団体が出版した本の編集者が、後期に「たった一語の解釈の為に××××円の投資をしなければならなかった」と得々と述べているが、
そんなことは日常茶飯事全くとるに足りない。
第一投資をどという考え方が為にすることでそのものに対する情熱は全く感じられない。
 俄かに秋の気配が濃くなった。或る年老いた詩人は「秋は身近かにすぎて耐えられぬ」と洩らしていたが、
私はまだ秋は秋らしく又よいと思っている。


イタリアマンドリン百曲選第9集
〔いるぷれっとろ〕 =9= 発行日1970年11月30日

〔第九集に際し〕


 本イタリアマンドリン百曲選も第九集にして漸く66曲を収めるに至った。
この分では十四、五集になりそうであるが、初めの予定の一ヶ月一集を強行すると相当な時間を費やさねばならぬことが解った。
結果的には隔月に一集の割合になっている。
未知の佳曲を知りたいとゆう欲望は私は五十年来少しも衰えていないが一般愛好家はそうゆうことではないらしい。
然し何処にか残しておきたいとゆう意図から始めたことで上演への期待は今では余り持っていない。
マンドリン界では奏者が順次交替してゆくので十年一日の如く同じ曲が繰り返されていても奏者自体は新鮮な感激で接している場合が多いから続くのであろう。
永年同じ曲を何回も上演し何回も聴かされているといくら名曲でも隅から隅まで解って了って従らに欠陥が耳につきよい気持ちにはなれない。
私は戦時中疎開した所が鮎の名産地でイヤとゆうほど喰べさせられたので今では見ても全く食欲は起きない。
ギター界でも全く同じことが言えるが少しは変わった味のおいしいものを喰べさせて貰いたいものである。


イタリアマンドリン百曲選第10集
〔いるぷれっとろ〕=10= 発行日1971年2月7日

〔老いて益々頑張ります〕


「カムパニヤ平原に夕陽沈むおりの淋しさよりも、
ナポリ湾のさざ浪に砕ける月影のさやけさよりも慕わしいのはイタリアの芸術で御座います・・・・・・」という書出しは、
筆者が1922年共益商社(日本楽器)でマンドリン教授を初めるに当って精神的な恩人であった弁護士I氏が起草してくれた趣意書の冒頭であった。
以来幾星霜、I氏も早く世を去り、筆者も老いたけれど、ほぼ半世紀を経た今日、
イタリア・マンドリン百曲選も漸く第十集を重ねるに至った心意気に、うたた感慨なきを得ない。
故武井守成氏が晩年「この頃は写譜を唯一の慰めとしている」と洩らされていたが筆者も漸くその境涯に至ったような気がする。
もはや百曲選を刊行する意義や目的等はどうでもよく、原作者を思い、当時を偲びつつ書くことが楽しみとなって了つた。
毎号の解説「いるぷれっとろ」は読んで頂いているかどうかは知らないが、
時折御要望頂いているマンドリン辞典は完成しそうもないので、その一部として見て頂きたい。
無制限に撒き散らしたものもあって残り少なになったので無くなればその号はうちきりとする。


イタリアマンドリン百曲選第11集
〔いるぷれっとろ〕 =11= 発行日1971年5月12日

〔むかしの仲間〕


 木下杢太郎の詩に「むかしの仲間も遠く去れば、また日ごろ顔あわせねば、知らぬ昔と変りなきはかなさよ。
春になれば草の雨、三月桜、四月すかんぽの花のくれない。
また五月には杜若、花とりどり、人ちりぢりの眺、窓の外の入り日雲」というのがある。
越し方を振り返れば泌みじみとした実感が溢れていて、口吟んでいると過去の様々の出来ごとが走馬燈のように顔前を過ぎ去る。
この三月筆者は兄を失い愈々お鉢が廻ってきた感じであるが、何が何でもこの百曲選だけは完結しておきたいと思っている。
ソルのギター曲「別れ」の後半にも「むかしをいまになすよしもがな」の実感が溢れているところがあるが、
現代に生きねばならぬ老人には抵抗が多すぎる。
 第12集はマンドリン独奏とマンドリンオーケストラを組合わせた特集号を考えている。
来年は古希を迎える齢になった。
年内に完結しておきたいものである。


イタリアマンドリン百曲選第12集
〔いるぷれっとろ〕 =12= 発行日1971年6月10日

〔イタリアの斯楽出版概況〕


 十九世紀後期から今世紀初頭にかけて月々イタリアでマンドリンの新曲が発表せられた回数
(月一回又は二回)を概算すると次のようになる。
 イル・プレットロ312回、イル・マンドリーノ912回、イル・コンチェルト759回と増刊56回、ヴイタ・マンドリニスト168回、
マンドリニスタ・イタリアーノ611回、イル・マンドリニスタ507回、ラルモニア42回、イル・コンチェルト・ア・プレットロ19回、
イル・マンドリーノ、ロマーノ48回以上、エステュディアンティナ(トリーノ)90回、イル・ピッコロ・マンドリニスタ41回、。
 上記の他に定期でなく随時マンドリン曲を出版した出版社は、
リコルディ、ブラッティ、シュミドル、ラピーニ、フォルリヴェージ、マウリ、カリッシ、ヴェンテュリーニ、ヴィツァーリがあり、
之にフランス、スイス、オランダ、ベルギー、ドイツ、スペイン、イギリス、アメリカの単独出版と定期刊行誌を加えると実に膨大な数となる。
我々は識っているようでも氷山の一角を見ているに過ぎないことを知らねばならない。


イタリアマンドリン百曲選第13集
〔いるぷれっとろ〕=13= 発行日1971年8月30日

〔マンドリンオーケストラを伴うマンドリン独奏曲特集〕

〔イタリアの薫り〕


三年ほど前から私の許に集る近しい人たちで小アンサンブルを初めた。まだ演奏会は開いていない。
皆熱心であるが夫々にマンドリンへの関心、考え方、経験、立場に差があり積極的な動きはしていないが、
この三月録音に漕ぎつけ七月当地のボクセルでレコードになった。
曲はいずれも本百選の中から十曲を抜粋した。題して「イタリアの薫り」ジャケットに記した言葉をこゝに再録する。
「マンドリンの祖国イタリアで斬楽が百花撩乱と咲き誇ったのは19世紀後半から今世紀初期にかけての約50年間であった。
エマヌエル二世によって統一復興されたイタリアは、かの才媛を謳われたマルゲリータを妃としたウンベルト一世に引き継がれ、
時恰も文明開化の時代にさしかゝり、宛ら明治の鹿鳴舘時代を髣髴させるものがあった。
貴賤を問わず上下を挙げてイタリアはマンドリン音楽に酔った。
マンドリンの諸星雲の湧き出て多くの有能な作曲家も禍中に捲き込まれたが、
遂に音楽の歴史の表面に現れることなく夏の夜空の如く儚く消え去ったと云ってよいだろう。
マンドリンの為に書かれた音楽が幾千幾万と各地に出版されて氾濫した時代があったのである。
日本では大合奏か独奏に集中して、大半の之等の佳曲が顧られないのが甚だ残念であるので、一つは記録の意味で又過去を偲ぶ意味で敢えて録音した。
家庭での小アンサンブルの栞ともなれば幸いである。」


イタリアマンドリン百曲選第14集
〔いるぷれっとろ〕=14= 発行日1971年12月7日

〔懐旧の三河路〕


去る十月の末、私は鳳来寺山を訪れた。
お辞儀していないから詣でたとは云えないだろう。がバスで通った沿道は私には「兎追いしかの山、小鮒つりしこの川」に近い三河路である。
東名高速道路と並行に豊川と国府を結ぶ街道があった筈で、豊川稲荷の裏から一頭立ての乗合馬車が出て少年の頃よく往復した。
春休みの終る頃之に乗ると道の桜の花片が車に散りかかり、陽の落ちる頃駅に近づくと馭者の吹く真鋳の笛が遠く鳴り渡り、わけもなく郷愁をそそった。
直ぐ前を横切った一宮砥鹿神社の何代か前の神主は私の母方の曾祖父に当たり、叔父から屡々『お前のおおじいさんは歌も詠めば、
書も画もうまく物識りでもあったが、生涯何をするでもなく親代々の財産を費い果たして了った。
こういうのを悧巧馬鹿と云うのだ』と暗に私の小器用を戒めたが財産が初めから無いのだからこのことは余り身に泌みない。
この八月開通したばかりのパークウエイを登るバスの窓外に展開する景観は、
まだ紅葉には少し早かったがこの人里離れた山峡を安楽椅子に凭れたような恰好で鳳来寺山に登ることが出来る御時世に
感謝しなければならないだろうが何やら侘びしい。
建立以来度々祝融のお見舞を受けて未だに本堂は仮の儘、
落葉焚く煙も珍らしくカメラに収め亭々と聳える老杉を見上げていると『スグは神様およろこび』の歌の文句はこのことと思う。
さしづめ私などは吹き曝らしの山肌に育った雑木で根ばかり張ってふしだらけ、
使いものにはならないがチッとやソッとの雨風にめげはしまいぞと思ったりする。
春の桜が淵、夏の東上の滝、夫々の思出はつきないが、流水変ること幾度、紅顔少年の時は還らず、うたた懐旧の情に耐えなかったのでここに記す。


イタリアマンドリン百曲選第15集
〔いるぷれっとろ〕=15= 発行日1972年5月1日

〔完結にあたり〕


 イタリアマンドリン百曲選もやっと完結出来たことは嬉しい。
頭初何集まで出来るかと懸念していたが、幸い健康に恵まれて、一応私としては初志を貫徹した。
途中購入を挫折された方もあったが、新たに申込まれた方もあり次集を出す費用が大体賄えたことは感謝しなければならない。
希望者は全国的に拡がっているので何処にかは残ることになり上演と否とにかかわらず満足している。
第15集収録の6曲は最後であるので取捨に迷って決めかね、之が発行のおくれた最大の原因である。
 初めに予告したように各地で上演されるマンドリンの名曲類は余り収録しなかったが、
筆写譜の氾濫している今日出典明らかな標準版の必要を痛感しているが大ごとなので手をつけかねている。
最後なので全収録曲目一覧表と「いる・ぷれっとろ」に掲載した作者の肖像写真及作品表目録を作成した。
楽譜のミス、脱落の訂正表も作成したが、紙面と費用の点で残念ながら割愛した。
全集御購読の方には爾後の企画については御連絡申上げる。


イタリアマンドリン百曲選別冊 日本の郷愁(1)
〔いるぷれっとろ〕 =16= 発行日1972年2月1日

〔日本の郷愁の刊行の弁〕


 イタリアマンドリン百曲選もあと6曲となると取捨に迷って決めかね、日本の郷愁を先に書いて了つた。
之はさし当り=1=としたが続刊するかどうかの先のお約束は出来ない。
従って百曲選と関係なく御希望の方に頒布する。
 この外に未刊マネンテ曲集、古典名曲編曲集、マンドリン無伴奏曲集 等を考えているが凡て百曲選を完結してからのことである。
 本曲集を日本の郷愁と名付けたが内容的には私の郷愁である。
然しマンドリン歴半世紀に垂んとしているのであるから日本の郷愁と呼んでもお許し頂けると思う。
 百曲選を書き初めて既に四年越しになるが、諸費値上りとなり今年から更に二割増の予告を受けている。
既刊分の残部がなくなれば再刊の分を改訂しなければならないだろう。
本曲集の値段も出来上ってから検討する。


マンドリン古典合奏曲集第1集及び第2集
〔いるぷれっとろ〕 =17= (最終刊) 発行日1972年7月28日

〔近  感〕


 私は先夜テレビで、東京六大学の漫画クラブの人たちの作品を評するるサトウ・サンペイ氏の評に全く同感した。
いづれも国際的な事件をテーマにしたもので、もっと身近かなものに求めたらいいと云うことである。
確に今日我々は世界の隅々に起きた事件が直ちに知らされる時代にあり、無縁ではあり得ないかも知れないが、
各々が足許を固めることを忘れて頂上ばかりを眺めている感じを拭い切れない。
恰(あたか)も楽器を初めて二・三年の人が運命や第九をきいてべートーヴェンを語る虚しさに似たものを感ずる。
近頃学生間のマンドリン音楽に関する考え方も、初めて二・三年、やがて忘る日又遠からざる人たちが、
マンネリだとか将来如何にあるべきか等論ずるのは全く思い上りとしか云いようが無い。
謙虚さなど微塵も感じられない。
一体諸君はマンドリン音楽についてどれだけのことを識っているのかと問い糺(ただ)してみたい。
歴史や現況を知ろうと努力もせず巷間に伝わることだけを鵜のみにしているだけである。
私はもはやそういう人たちと席を同じくすることすらイヤである。