大正7年(1918年)竣工  土蔵は大正9年(1920年)竣工
表の高塀は昭和63年(1988年)に車両突入事故で大破したため
建築当時の外観、建築様式を忠実に再現して再建築されたもの
門は幸いにも事故から免れたため当時のままです
 
 
 

昭和の終わりから平成の始めにかけて東山通り(東大路)を車で走ると明治、大正時代の面影を残す京都の和風建築が数多く見られました。

中でも雑誌の京都特集に登場するような虫籠窓(むしこまど)、平格子(ひらごうし)、出格子(でごうし)、ばったり床几(しょうぎ)などを備え二階の軒先が1.5階しかない、表が商店、奥が自宅といった家構え、うなぎの寝床に中庭を備え・・・・これらを称して京町家造りと呼ばれるようになってきているようですが、これらの京都の町家一般建築とは違い、社寺建築などにみられる羽根木(はねぎ)など存分に使って、座敷廊下などの軒先の空間を大きく取り、また大規模な火袋を備えた、歴史的な大きな木造建物が何軒かみられました。

しかし今ではそのほとんどが姿を消し、残された建物はわずかとなりこの建物も貴重な存在となっています。

玄関から土間を通り抜けると天井を貫く大きな火袋(ひぶくろ)があり、これだけ大きな火袋をもつ建築物はめずらしく今では貴重な存在となっています。
火袋には太い牛梁(うしばり)が渡されその上に束(つか)が立てられ縦横に組まれた貫(ぬき)で結ばれております。

かつては、竃(かまど)を使って薪を燃やしていたためこの煙を逃がすためと、夏場は京都の蒸し暑さから逃れるため天井を高くとり、涼しさと建物の強度をあげるための伝統的な京都の建築様式の工夫がみられます。

今回代表的な家屋内、室内の間取りをパノラマにてご覧いただけます。
(建物内は原則として非公開ですので見学は出来ません)
 
 

歴 史

建物は昭和17年(1942年)の1月16日の馬町空襲の際、爆心地から約100mといった距離にもかかわらず爆風にも耐え抜き、また室戸台風、第2室戸、伊勢湾台風等の大きな台風、阪神大震災の際は庭の大半の灯籠などの倒壊といった大きな戦火、災害にも耐え抜いてきた歴史を持っています。

ちなみにこれまで京都は戦火から免れたとの通説が一般的で、空襲があったことはほとんど知られていませんでしたが、京都市内では3カ所(馬町空襲、西陣空襲、太秦三菱重工空襲)の空襲記録があり、一番初めに空襲にあったのがこの馬町空襲で、その後各都市を焼きった焼夷弾ではなく、50Kg爆弾の投下による空襲が主体とされております。

これまで馬町空襲は日本側で京都府の公式に記録された「250ポンド焼夷(しょうい)弾1発、100ポンド爆弾15発、20ポンド爆弾50発が投下された」と有りましたが最近見つかった大阪国際平和センター(大阪市)に米国公文書館などから収集されている膨大な米軍資料の中に米陸軍の「第21爆撃機団作成 作戦概要12号」に京都空襲の記録が見つかりました。

それによると、名古屋市の造兵廠(しょう)熱田製造所を第1目標にサイパン島を出たB29が、曇りで視界不良のため名古屋を回避し「午後11時19分、高度約2万9千フィート(9千メートル)から250ポンドの高性能爆弾20発を京都市内に投下し、市中心部に爆発が起こるのを確認した」と記載されており馬町空襲の全容が米軍資料からも判るようになってきました。

詳しくはインターネットにてお調べください