昔と今 序曲
 
ジュゼッペ・マネンテ作曲
中野二郎編曲
 
 マンドリン合奏曲「メリアの平原にて」の作曲者としてマネンテの名はよく知られており、語り尽くされているので改めて此処には述べないが、筆者がこの曲を見出して編曲するまでの経緯は、この際明らかにしておきたい。
 大正11年(1922年)後に日本の音楽界の一大功労者と讃えられるようになった若き日の斎藤秀雄氏を指揮者に迎えて、東京にオルケストル「エトワール」というマンドリン合奏団が誕生した。
この「エトワール」は第二回のマンドリン合奏コンクールに同志社大学マンドリンクラブと共に第一位に入賞した優れた最進歩的な合奏団であったが、ほどなくチェロ勉学のため斎藤氏はドイツに留学したので、田中喜助という人が指揮者になった。
この人が稀にみる篤学家で当時ミラノで発行されていたマンドリン音楽の研究誌イル・プレットロ誌を隈なく読破していたのである。
勿論レパートリーも豊富で斯界の最先端をゆく感があった。
その第10回演奏会にその指揮で、マネンテの四楽章の「マンドリン芸術」が日本で初演された。
その解説が又詳しく、作者の経歴と沢山の作品のあることが判ったのである。
その中に本曲「昔と今」があるのを知り、探索の緒口が掴めたのであった。
勿論原曲は吹奏楽なのでマンドリン畑の出版社では見出せない。
後にこれらのことの出典が1920年のイル・プレットロ誌であったことが判明した。
 本曲の題名はAntico e Modernoで、今と昔ではなく、昔と今なのである。
日本では昔と今を並べるのに今と昔という云い慣わしに従ったようで、筆者は訳者に敬意を表してそのまま今と昔としたために定着して了つたようであるが、此処に改めて昔と今に訂正したい。
訳者田中喜助氏の消息は「エトワールの消滅後杳として手がかりがない。
 筆者は1938年前後第二次大戦の雲行きが次第に怪しくなる頃度々作者マネンテと文通し、屡々(しばしば)作品も贈られていたのであるが事情の激変に双方消息が断たれ、戦後になって、文通した数年後に亡くなられたのを知り驚愕、今更乍ら悔限にたえない。
 筆者が本曲を編曲したのは昭和43年3月で同志社大学で初演以来、関西地区では時々上演されていたが、東海地区ではそれほど馴染まれていないし筆者も直接指導する機会もなかったので敢えて加えた。
前置きが大変長くなったが、曲は作者が創作意欲最も旺んな初期の序曲で(1896)、同期には「交響的間奏曲」がありその後「国境なし」や「華燭の祭典」が続くのである。
 曲は牧歌的なメロディに始まり、往事のよき時代を懐かしむ感じをそそると一転、歯ぎれのよいリズムの上に進歩する現代をハ短調とハ長調の二つに対比させ、過去から現代に進展する様を描こうとしたものであろう。



[いる・ぷれっとろ番外編]