晩年に 交響的間奏曲
                        
H.ラヴイトラーノ作曲
 
 この作者の「レナ一タ」「ロマンツァとボレロ(雪)」「ローラ」の三大作は早くから日本で親しまれていた。
ナポリ港頭のイスキア島出身であるが、早くからフランスに帰化(作品の著作権はフランスに在ってイタリアにない)、フランスの植民地アルヂェリアのボーナに居住していた。
1934年12月16日此処で逝いたのであるが、本曲はその前年1933年3月マチョッキの主宰していたエステュディアンティナ誌に発表せられたものである。

前記三大作の
「ローラ」がトリーノのイル・マンドリーノで1903年出版、
「ロマンツァとボレロ」がミラノのイル・プレツトロで1910年出版、
「レナ一タ」がパリーエステュディアンティナで1910年出版、
本曲の出版せられるまでに20余年のブランクがあり、その間の消息は仝く掴めていないのであるが突如数曲が新たに出版せられたのである。
出版の情況から凡てを判断するしかないのであるが、筆者がこれを見出すまでの経緯を知る人はないので書いておきたい。
当時エステユディアンティナ誌を継続購読したような日本のマンドリン愛好家は居ない筈であったが、京大出身のマンドリン愛好研究家で医師の鳥井諒二郎氏は奇跡的にも揃えて購読していたのである。
筆者が同志社マンドリンクラブの技術顧問に招かれて屡々(しばしば)京都に赴くたびに、既に親交のあった鳥井氏を訪ね、蔵譜を洽(あまね)く拝見して其処に数曲のラヴィトラーノの新たな作品を見出し驚喜、取敢えず親しい同好者にコピーを頒布したのが発端である。
従ってそれ以前に日本では演奏されていない佳曲なのである。
筆者は別にそれを誇るわけではないが、筆者のような異状な愛好者が介在することによって少からず馴染まれるに至ったもの、こと、が相当にあるのを多少は知っておいて貰いたい。
近頃プログラムに編曲者名を明示しない所が沢山あるが、編曲者の介在することによって仲介されるのであるから当然記さるべきことである。
 前置きが長々となったが、本曲には冒頭にフランスの著名な抒情詩人ラマルティーヌの詩の一節が掲げてあるが訳詩が難解なので此処には掲げない。
変化にも富んでいるが、人生の晩年の哀愁がヒタヒタと迫り、ひとたびこの音の中に身を置くと、過ぎ去った様々の回想が湧いて、涙を禁じ得ない。
 弾くメンバーの方々はまだまだ春秋に富むからそれほど身近なものではないが、長寿国にはなったものの、80才を越すと憚(はば)からず天寿と称し、90才を越した筆者などはもう晩年と称する域はとうに過ぎ去っている。
が、メンバーの方々も又これを聴く方々もいずれはこの曲が身近になることは確かであるので、そうした思いで聴いて頂きたい。



[いる・ぷれっとろ番外編]


Au Crepuscule de La Vie
Hyacin the Lavitarano
晩年に
イヤチント・ラヴィトラーノ 作曲

本曲の存在も「道化師(Colombine)」同様、第二次大戦中にも拘わらずL'Estudiantina誌を購読していた京都の医師・鳥井諒二郎氏(故人)のお陰である。
恐らく日本はおろか、イタリア、フランス、ドイツにも存在しないと筆者は思っている。今回録音した13曲のうち、奏者全員が感銘したのが本曲で、作者が没したアルヂェリアにはその遺家族の手に未知の佳曲が存在していたのに違いないのであるが、アフリカのアルヂェリアという土地が無縁で、手の施しようがなかった。
今世紀初頭のマンドリン音楽隆盛時には、イタリアで屡々(しばしば)催された演奏コンクールには地中海を隔てたアルヂェリアからも参加するほどの交流があったのである。
本曲の出版は1933年3月号L'Estudiantina誌である。

 
追加資料
遺稿
中野二郎編著
「マンドリン ロマンの薫り2集」より